三鷹市の「三鷹」って?今頃、不思議に思いました。

武蔵野市」と聞くと、なーーーんとなくイメージが湧きますが、「三鷹市」は

なんで「三鷹」なんだろう?

 

以前、「鷹匠茶屋」に訪れた時から、「やはり鷹に関係する地域なのかな?」と

思うようになりました。それまでは、あまり疑問には感じなかったんだけどね。

 

三鷹村が成立したのは、明治22(1889)年。それまでの上連雀下連雀、井口新田、深大寺新田、大沢、野崎、新川、中仙川、北野、牟礼の10カ村の合併によりできた「神奈川県北多摩郡三鷹村」です。三鷹村となった当時は、神奈川県に属していたなんて!ビックリ!です。ところが、玉川上水の水質管理問題に端を発して、三鷹村を含む三多摩全体が東京府に移管されることとなりました。明治26年のことだそうです。

 

さて、「三鷹」という命名については諸説あるらしく、その中でも現在定説となっているのは「三領説」と言われています。

 

これは前述の10カ村が江戸時代に世田谷領、野方領、府中領の三領にまたがる鷹場の村であったため「三鷹」となった、という説です。

 

なるほど~。

と、納得したものの、今度は「鷹場」のイメージが湧きません(汗)

 

調べてみると、鷹場とは、「特定の権力者が、鷹狩を目的として設定した場所」のことだそうです。そして、江戸時代には、将軍と大名だけが鷹場を持つことができたそうです。権力の象徴だったのでしょうか?

 

江戸時代、幕府は狩猟を行う鷹狩りのため、江戸城を中心に五里(20km)以内の村々を鷹場としました。上連雀・野崎・大沢から東は幕府の鷹場であり、西の井口・野崎・深大寺・大沢は尾張徳川家の鷹場というように、三鷹は幕府と尾張徳川の鷹場の境界線にもなっていたのでした。そのため、村々には境界を示す「鷹場標石」という石碑が建てられ、三鷹市内には3本が現存しているそうですよ。

 

そのうちの1本は、市役所南側の雑木林内にあるそうです(ただ、移設された石碑なので、元々の位置は不明だそうです)。歴史ある石碑なので見難いそうですが、よく見ると「従是西北尾張殿鷹場」という文字が彫られているとのこと。

 

そういえば、井の頭公園の「井の頭」という地名も、家光が鷹狩りに来た際、湧水を見て命名したという説もあるそうです。三鷹は、徳川家との関りが深い地なのだな、思うと何だか不思議な感じもします。

 

 

 

今回は、三鷹市市役所と図書館のHP資料を参考にして、ブログを書きました。
市関係のHPからも、たくさんの情報を得ることができ、学ぶことができるのだなぁと
改めて思いました。

 

今度、市役所に行ったときには、鷹場標石を見てこよう。

うん。そうしよう(笑)